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なぜ広陵町が「かぐや姫のふるさと」とされるのか?

[2022年3月25日]

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このページではかぐや姫が登場する『竹取物語』の成立を紐解き、「『竹取物語』のかぐや姫」の古里を探ります。


「口頭伝承のかぐや姫」と「竹取物語のかぐや姫」

かぐや姫イラスト


 私たちが幼いときから聞いている、「竹から生まれ、中秋の満月の夜、月に帰って行ったかぐや姫」のお話は、風にそよぐ竹と美しい月があれば、日本の各地で語り継がれています。これは今も伝えられている『口頭伝承のかぐや姫』です。

 これに対して、『源氏物語』の中で、「我が国最初の物語(小説)」と書かれいる『竹取物語のかぐや姫』があります。

 「伝承」と「物語」の違いは、伝承が「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがいました」で始まるお話ですが、竹取物語(小説)のように読み物として書かれた物語となりますと、単に「むかし、むかし」ではなく、年代がはっきり書かれています。

 また、「あるところに」ではなく、文中に出てくる有名な事件(壬申の乱)から推定して場所も飛鳥京か藤原京のある大和国とわかってきます。また、「おじいさんがいました」ではなく、竹取翁の名前が「讃岐造(さぬきのみやつこ)」と書かれています。

 さらに『竹取物語』には、かぐや姫に求婚する五人の貴公子の官職と名前がはっきり書かれています。

 確かにかぐや姫は架空の人物かも知れませんが、姫に求婚する五人と同じ官職と名前が『日本書紀』に記載されていることから、この物語のモデル地となった場所、年代がわかってきます。これが『竹取物語のかぐや姫』と、『口頭伝承のかぐや姫』の異なるところです。

 それでは、「『竹取物語』のかぐや姫」の里はどこか調べてみましょう

『竹取物語』に書かれた竹取翁の名前

かぐや姫イラスト
家系図


 まず、『竹取物語』に書かれた「おじいさん」の名前ですが、『竹取物語』の冒頭に「今は昔、竹取の翁というものありけり。名をばさぬきの造となむいひける」とあります。つまり竹取翁の名前は「讃岐造(さぬきのみやつこ)」と書かれていますことから、『竹取物語』のおじいさんは讃岐村の長であることがわかります。

 古代では、地名というものはその土地の豪族の名前をつけたと言われています。更に地名は千年過ぎても一割変わったらいいほうだと言われています。すると、「讃岐造」とは讃岐村の長で、讃岐村を治めていたのは讃岐氏であったことも想像できます。

 では、古代に「讃岐」なる姓をもった人が存在していたかを調べてみますと、我が国の最も古い歴史書と認められている『古事記上巻』に、第九代開化天皇の項に、天皇の孫に「讃岐垂根王」の名前を見つけることが出来ます。

 更にこの讃岐垂根王の姪に「迦具夜比売命」なる名も見つける事が出来ます。讃岐なる名前の人の姓は、『古事記』の記録に記載されているから存在していた実証となります。そして更にこの迦具夜比売は十一代垂仁天皇の妃となり、その子の袁邪弁王なる御子の名も歴史の中に記載されています。

 これで、まず「いつ、どこで、だれが」の「だれ」は、讃岐垂水王に代表される讃岐氏であることが推理され、その豪族を祀ったのが讃岐神社であることが考えられます。

 これを一つの拠点としまして、次は『竹取物語』に書かれた「どこ」かを考えてみようと思います。

五人の求婚者・官職と名前からその人達の住んでいた所

5人の貴公子


『竹取物語』には、かぐや姫に求婚する五人の求婚者が出てきます。

 平安・鎌倉・室町・江戸時代に、平安時代初期に書かれた『竹取物語』を真似して書かれた類似本は、実に沢山あります。しかし、この五人の求婚者の官職・名前がはっきり書かれているのは、『竹取物語』だけです。

 この名前の人物(石作皇子・車持皇子・右大臣阿倍御主人・大納言大伴御行・中納言石上麻呂足)の名前から、加納諸平という学者が江戸時代末期に『竹取物語考』と言う本で、この五人は奈良時代の「壬申の乱」に関係のある人物の名前であると、実証しています。

 この事実をもう一歩深く突き進んで考えると、五人の求婚者の名前から壬申の乱(六七二)と関係ある人とすると、『竹取物語』に書かれた五人の求婚者が住んでいたところは、当時、都のあった飛鳥京か藤原京となります。

 交通機関の発達した現在なら大阪・京都への毎日の通勤・通学も十分可能ですが、奈良時代に摂津(大阪)・山城(京都)の人が、飛鳥京か藤原京のある大和国へ毎日通うことは不可能で、五人の求婚者とかぐや姫の出来事は、やはり大和国であることは間違いありません。

 また、『日本書紀』に記載されている開化天皇の孫の讃岐垂根王と、垂仁天皇の妃となった迦具夜比売命から、開化天皇の御陵は現在奈良市にあり、垂仁天皇の御陵は奈良市菅原(近鉄尼ヶ辻)にあるように、その二人に関係のある讃岐垂根王と迦具夜比売命が住んでいたところは、大和国(奈良県)と考えられます。


竹取翁とかぐや姫が住んでいたところの広陵町

かぐや姫イラスト


 では更に、『竹取物語』に書かれた竹取翁(讃岐造)とかぐや姫の住んでいたところは、大和国のどこかを考えてみましょう。

 讃岐氏に関係のある「讃岐神社」のことですが、讃岐と名付けられた神社のあるところは、大和国(現在の奈良県)内では奈良県北葛城郡広陵町だけです。讃岐神社は今も巣山古墳の近くの竹やぶに囲まれて、ひっそりと鎮座しています。江戸時代までこの広陵町は、大和国広瀬郡散吉郷と『和名抄』(九三〇)に記載されています。讃岐と散吉は同音・同意であり、同じと考えられます。

 最初竹取翁の住まいを大和国広瀬郡散吉郷(現在の広陵町)と発表したのは、大阪市立大学講師塚原鉄雄氏で昭和二十九年でした。それ以来、岩波・新潮・講談社の『竹取物語注釈書』では、この説を今日まで使っています。

 讃岐神社を出て、竹取公園の方へ歩いて行きますと、『竹取物語』の中で、かぐや姫の名付け親となった「みむろとの いんべの あきた」が住んでいたという「みむろ丘」が、馬見丘陵の彼方に夕陽にかすんで見えます。

 復元された三吉石塚古墳の上に立って、真っ赤な夕陽が二上山に沈むのを見ていると、竹やぶの中から竹取の翁とかぐや姫が出てくるような幻想におそわれます。



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