広陵町 地名の由来(広陵西小学校区)
[2022年2月21日]
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もともとこの辺りは、「大豆(まめ)」と呼ばれており、「まめ」が「まみ」と変化し、「馬見」の字を当てたと言われ、馬見一帯は丘陵地帯で、昔は草原が続き朝廷の牧場であったといわれています。
ウマミは民俗語彙(口頭で伝えられてきた方言的な単語)で牧場の馬を検査する場所、牧場の監視所を意味するそうです。
この地域には、聖徳太子が馬に乗りながら広い国土を見渡し、現在の大和高田市から安堵町を往来されたという地名伝説も残っています。
なお、昭和30年に合併するまでは、今の西校区及び真美ヶ丘地域が「馬見町」でした。
上記のとおり、「まめ」が「まみ」と変化し、「まみ」に「真美」の字を当てたとしています。
この一帯がニュータウンとして開かれた際に「真美ケ丘ニュータウン」と名付けられました。
この地域にある願宗寺の山号(寺の名前の上につける称号)が六道山で、この六道山が総道場として浄土真宗が発展したと考えられ、それが地名になったようです。
この地域にある新山古墳を「大塚」と呼んでいたものがそのまま地名となったようです。
この地域は、余戸(あまりど)という村に満たない小さな集落があり、そこには寺院建築のための職人、その材料を運ぶ人、仏像を作る仏師などたくさんの人が寝泊まりしていたようで、「余戸」が「安部(阿部)」という姓となり、地名になったのではないかとも言われています。
この地域は、元は「成相(なりあい)」と呼ばれていたようで、音読が安定するまでは「ヒキソウ」といわれてたようで、「ひきそ」となり「疋相」という漢字を当てられたのがいつ頃からかは不明だそうです。
ちなみに「成相」は、成相真人(ならいのまひと)という歴史上の人名で、その墓地から地名になったのではないかといわれています。
「大垣内」の呼び名は、明らかに垣内(村を区分けした集落)の中心であり、大きな垣内であったことから呼び名がついたようです。
また、馬見丘陵地帯の郷中(中心)として集落があり、人々がこの地域を中心に住み着いたといわれています。
この地域の土質が赤土であり、自然に地名として「赤部」と呼ばれるようになったといわれています。
昔はここの土で赤土器や瓦を造り、朝廷や豪族などに奉納していた人たちが多く住んでいたようです。
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