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『竹取物語』考察:かぐや姫の故郷を奈良県広陵町と推定したのは誰か?

[2022年5月26日]

ID:5465

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塚原鉄雄氏の学説


竹取物語と広陵町


 古典研究出版の権威である岩波文庫・新潮社より出版されている『竹取物語』注釈書は、ともに竹取の翁の故郷について、塚原鉄雄氏の「広瀬郡散吉郷」説を掲載しています。また、講談社の北杜夫訳『竹取物語』の「広瀬郡散吉郷」説も、その根拠は塚原鉄雄氏の学説によるものと思われます。

 この塚原氏の説は最初、昭和28年(1953)3月に白楊社より発行された『新修竹取物語別記』に見られることができます。

 塚原鉄雄氏は『竹取物語』に出てくる地名から、その舞台は大和国南部地方で、讃岐造のことから大和国広瀬郡吉郷をあげ、広瀬郡馬見村三吉とつきとめています。この馬見村こそ現在の奈良県北葛城郡広陵町三吉です。

 これを書いた日時として「1950.3.14」と書かれており、岩波文庫が竹取物語の里は広陵町と書く前よりさらに20年前のことです。

 これ以後、『竹取物語』について書かれた岩波書店・新潮社や県史のように、学術的・専門的な本には必ず、「塚原鉄雄氏の説によると」として、『竹取物語の舞台になったところは、現在の奈良県北葛城郡広陵町』との注釈を載せています。

 現在のところ、この「広瀬郡散吉郷」説に、何ら学術的・文献的に反論は出ていません。


『竹取物語』の「三室戸」と広陵町の「三諸岡」


馬見丘陵さくら


 昭和58年(1983)から翌年にかけて広陵町教育委員会が主催して、奈良県立橿原考古学研究所が調査を実施し、広陵古文化会が協力して、「牧野古墳」の調査を行った報告書に、「『牧野古墳』は、押坂彦人大兄皇子を祀った成相岡である可能性はかなり高いと言える」と報告されました。『延喜式神名帳』には、この三人の皇族関係の墓のあるところを「三諸岡」と記されています。

 このように、奈良県北葛城郡広陵町三吉周辺には、『竹取物語』に記載されている竹取造一族を祀った「讃岐神社」、また、かぐや姫の名付け親である齋部の秋田が住んでいた「御室戸」の「ミムロ」という土地も、現在の広陵町三吉周辺に存在しています。


広陵町が『かぐや姫の町』と、決まるまでの顛末期


馬見丘陵「竹林」の散歩道


 昭和61年(1986)三月十五日読売夕刊の第一面に大きく、次の用に報道されました。

【「竹取物語の舞台に新説 かぐや姫は奈良県生まれ かぐや姫の舞台は奈良県北葛城郡広陵町」…この説は、平安時代の研究家である愛知教育大学黒沢幸三教授が、『源氏物語』と並ぶ物語文学の最高傑作『竹取物語』について、そんな新説をまとめました。物語に登場する竹取翁の出身部族である讃岐氏は、持統文武朝廷に竹細工を献上するため讃岐国の氏族齋部氏が、現在の広陵町である大和国広瀬郡に移り住んだものとし、地名学者ものこの説に折り紙を付けている。】

 報道の2年前(昭和59年)に刊行された『奈良県史』の第九巻、国文学編第二節に、「竹取翁と讃岐・竹取物語」が記載されていましたが、県史・市史・町史は専門化していて一般人には難解で、家庭で話題になるにはほど遠く、このため一般には話題もならず2年の歳月が過ぎ去ってしまいました。新聞大一面に大々的に発表されたのは、岩波文庫の『竹取物語』が出版されてから、16年の歳月が経過しています。

 報道されてから7年の歳月が過ぎた平成5年(1993)、当時の林田孝一町長が、これらの事実に基づいて「かぐや姫のまち・広陵」として、平成6年(1994)を「かぐや姫元年」として取り上げることを決定しました。


出典


広陵町史:p1127~p1142

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